仕事でも育児でも「放任」と「放置」をはきちがえてる人が多いと思う世の中。字の違いとしては「任せる」なのか「置く」なのかの違いで意味が大きく違う。ググると同じような意味合いだが、「任せる」という漢字が使用されているので見てはいる。
放任・・・干渉しないで、したいようにさせること
放置・・・そのままにしてほうっておくこと。所かまわず置きっぱなしにしておくこと
放任・・・上司から権限委譲され、裁量のもと業務に取組み、進捗・相談をし案件を進んでいく。そのため上司が進捗状況や行き詰まっている理由が把握できている
放置・・・上司から権限委譲され、成果のみ求めるため、進捗状況はどうでもいい。成果に対して後出しじゃんけんをする
放任・・・子どもに宿題をしなさいといって、自分も同じ空間にいて子どもがどんなやり方で進めているかを見ている
放置・・・子どもに宿題をしなさいといって、そのまま部屋を出て他のことをやっている
なにが言いたいかというと、放任と放置の違いは相手に任せているが、「見ているかどうか」が違う。放置主義は自分のことが最優先で相手のことは興味関心がなく、見ていない状態。
これらは結果主義と過程主義どちらを大事にすべきかにもつながることだと思うので自分の考えをまとめてみる
よくある歪んだビジネスの場
子どもの頃にされてきた環境がそのまま大人になってブーメランになる。
放置を放任とすり替える大人
新人教育をせず、「何をすればいいですか」と質問をしてきた新人に対して、それを考えるのが仕事だといったり、今忙しいからあとでといってそのまま放置されることがある。
自分なりに考えて、これがいいだろうと思って行動しても、なんでこんなことしたの?や俺の指示なくこんなことするなよとキレ出す始末の人間もいる。事前確認しに伺ったのに、行動をした結果に伴って手のひらを変える。
このとこを直接いったところで、またはさらに上の上司に相談しても「俺またはあいつは放任主義だからなあ」のひとことで終わるパターンなんてのもある。完全に放任ではなく、完全に放置しているのに、周りがまったく認識していないのである。
結果論で神からの視点から部下を叱る
上司や先輩、同僚にもよくいるタイプで、成果という結果だけを見てあーだこーだいったりする人がいる。いわゆる結果論者というやつだが、これはめちゃくちゃ楽なマネジメント。というかもはやマネジメントですらない。
結果がわかるなら、初めから進捗経過で助言するべきで、放置してきて結果だけをすくい上げるだけなら誰でもでき、上司のいる意味がない。
進捗状況を確認して、進捗や方向性をハンドリングし、与えられたリソースで最大の成果を出すのが上司の仕事だが、なにひとつできていない。
結果論主義者は責任転嫁で逃げることを第一に考える
なぜなら成果が出ないと自分の責任になってしまうから。自分の責任で成果が出ないということは自分の評価につながり、自分ができない人間だということを突きつけられてしまう。
これを避けるために、責任転嫁できる理由を探して、「あの人がダメだったから成果が出なかった」、「売り上げが悪い原因は自分以外の〜だ」といって逃げる。
放置主義にありがちな結果論者は自分が悪くないと喚いて、自分の責任を果たさず、責任をなすりつけようとする方に多い。つまり、放置主義者は他人に厳しく自分に甘く、成果だけを求めるタチの悪い人間が多い印象がある。
結果より過程に重きを置く理由
再現性があるかどうかが全て。結果だけに囚われて、プロセスを思考しないなら意味はないと思う。その結果がたまたまうまくいったものなら再現できずに、次が成功するかどうか運否天賦みたいな状態になる。だから成功した結果だけを切り取るのではなく、成功、失敗問わず振り返りが必要。
どこで成功したのか、どの基準でこの判断をしたのかといった要因を掘り下げることが絶対的に必要でパターン化が次の成功につながるが結果だけを見すぎるとこのあたりがおざなりになってしまう。
子どもの頃の環境は大人が作る
なぜこのような大人が多いのかを考えてみると、結局、子どものときの体験がそのまま反映しているのではないかと思う。それは、癖や習慣というかたちになって自分でも意識しないうちに刷り込まれているのだろうと感じる。
根本悪は放置主義
これは子どもではなく大人にも通じることですが、「無関心」が最大の悪。つまり根元悪は放置主義。みんながみんな自分のことしか考えず、他人は他人、興味がないといっている。自分が子どものとき、こういう保護者はどういう風に見えたのか。
勉強のことばかりガミガミ主張し、遊んでくれない、関心がない、何処かへ連れていってもくれない。子どもは、子ども同士の会話で、友達はお母さんと海へ行ってきたとか、お父さんと山でキャンプしたとか、そういう話をしていたりする。
いいなとか、自分も行きたいとは思っているが、気をつかって、こういうことを言い出せない。言っても親がまともに聞いてくれない。これが毎回のようになるとそのうち大人に期待するだけ無駄と考えるようになり大人に何も期待しない子供が育っていく。
しかし、大人はやれるのにやれないことを正当化し「放置」という行為を「放任主義」とすり替えを行う。これを子どもの感性で子どもが真似していく。
発言・行動に一貫性を持っているか
子どもは信じるものが基本的に身近な大人。つまり保護者になる。この保護者から、浴びせられる言葉が自身の精神性を育む核となる。
ここで、勉強するときは干渉してくるけど、いざ出かけるときや将来の道を決めるときには放置になることが多い。過干渉なんだけど放置があるという状態。子どもを育てる上で一貫性がかけらもなく、この状態で子育てを行うと子どもは混乱する。
保護者はなにを軸に教育しているのか
結局はここ。教育をする上で、子どもとどう向き合うかというマインドセットの問題である。自己保身、見返りが心の奥底にある大人では、子どもの考えているようで考えていない、自分が世間からどのように思われているかどうかを第一に考える。
その結果が意味のない部分で口を出し、家では放置するといった最悪のコンボが起きて子どもに悪影響を与える。放置ではなく、放任であれば、子どもの裁量に任せた上で、大人が見守ることができるので、子どもに積極的に関わるようになるのである。
まとめ:放任主義は放置の逃げのすりかえ
教育とは放置することではない。金だけ出して、教育した気になってもそれは育児をしているとは言わない。その子どもひとりひとりに真摯に向き合う必要がある。子どもは自分の鏡であるので、同じように真似をしていく。
子どもが成長するにつれて、嫌なことに向き合わず、誰かのせいにして、自分は悪くないと逃げるようになる。そして、社会の求める「成果至上主義」に呑まれると、すりかえて逃げるくせに成果だけはチクチク求めるという最悪のパターンの人材ができるのである。